2012年7月15日日曜日


想定外の名演:チャイコフスキー・ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調
アンドラーシュ・シフ LONDON F-35L-20077

演奏家には傾向というか、その人の嗜好から演奏レパートリーが年をとるにつれ自然と限定されてくるものではないかと思う。たとえば、長年ベートーベンなどの古典音楽を専門に研究し、演奏している人がある日突然ショパンを弾く。このようなことは律儀なクラッシックの世界では普通起こらない。古典とロマン派はスタイルや演奏法が違うとかいう以前に世界が違うのである。

名ピアニスト、アルフレート・ブレンデルが以前こう語っていたのを思い出す。「私は若い頃、独墺系かショパンのスペシャリストのどちらになるべきか悩みました。それぞれ私が心から敬愛し、生涯をかけて取り組む価値があるすばらしい分野なのですが、どうしても感覚的に共有できない要素があり、このような決断を自分自身に課したのです。難しい選択だったのですが、結局、独墺系の音楽と共に歩んでいくことに決めました。」

前置きが長くなったが、アンドラーシュ・シフは1953年生まれ、ハンガリー出身のピアニストおよび指揮者。1980年にイギリスのDECCAにモーツァルトのピアノソナタ全集を録音し、若々しく颯爽とした名演で世に知られるようになった。そして、バッハ全集やシューベルトのピアノ・ソナタ全集などの録音で名声を確固たるものとした。近年はECMに録音したベートーベンのピアノ・ソナタ全集は作品の真髄に迫った名演として大きな注目を集めた。

"シフがチャイコフスキーの協奏曲を弾く"というのは(私にとって)天と地がひっくり返るくらいの衝撃的ニュースなのである。彼の独墺系音楽の学究的な演奏、ベートーベンやバッハの演奏で垣間見られるドイツ・クラッシックの深みのある音。こんな人が19世紀後半のロシア音楽、しかもヴィルトゥオーソ的なショーピースを弾くことはほとんどの人にとって「想定外」の出来事ではないだろうか。

どんなに渋いチャイコフスキーだろうと思って聞いたら、意外と爽やかで、超絶技巧が遺憾なく発揮された絢爛豪華な演奏。シフのピアノは全体にわたってとても歯切れがよく、新鮮な煌きがあふれている。それは安易な名人芸ではなく、知的にコントロールされたフレージングや音色が魅力的な演奏である。同じくハンガリー出身の指揮者、ショルティが指揮するシカゴ交響楽団のパワフルで目が覚めるようなサウンドも印象的。

ケース裏に記されている第一楽章の演奏時間は"19:59"、比較的早いテンポであることが窺わせる。冒頭の変ロ長調の颯爽としたテンポは戦前のホロヴィッツとトスカニーニのスリリングな名演を髣髴とさせる。第二楽章、アンダンティーノ・センプリーチェは過度にロマンチックにならずに硬派な演奏。第三楽章冒頭では内声をさりげなく表面化させユーモアを感じさせる。