1942年3月 戦時のベートーベンの交響曲 第9番
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー VENEZIA V-1019
ここにある録音は1942の大戦下、ドイツでのライブ録音である。まず、当時としては世界最高レベルの録音技術。そしてドイツが誇るベルリンフィルハーモニーの輝かしい演奏。そして第4楽章のコーラスには当時ドイツでトップクラスのブルーノ・キッテルが率いる合唱団。そして今は無きベルリンフィルハーモニーホールの豊かな音響。録音から70年を過ぎた現在でもCDカタログから消えることがなく、現在一流の最新録音と並んで発売されている。
この演奏は大戦下の影響があってか全体にわたって一定の緊張感があり、冒頭の5度の和音による始まりは神秘的で美しい反面不吉な運命をも覗かせる。時にはやさしく、時には雷鳴のごとく力強いドラマティックな展開にたちまち心を奪われる。
この交響曲で一番好きなところは第3楽章、瞑想的な緩徐楽章(特に25小節目からのアンダンテ モデラートの部分)である。ニ長調からト長調そして変ホ長調へと情景が変化する様は昔懐かしいふるさとの風景を眺めているようで心地よい。旧友に再会したときのような温かいシーン(ニ長調の部分)から昔学校で友人と過ごした楽しく希望あふれるシーン(ト長調の部分)そして故郷を後にして上京時のような切ないシーン(変ホ長調の部分)。普段は仕事や雑事に追われて忙しく過ごしているんだけど、ある時ふと立ち止まって忘れかけていた昔を思い出すときに抱く感情に似ているような気がする。
これは指揮者、交響楽団、音響、コーラス、すべてが破格の内容のロングセラー盤だが、この録音にまつわる数奇な運命がこの演奏をさらに魅力的にしているのではないかと思う。
この録音は1942年3月22日~24の間に旧ドイツ帝国放送局により当時の最先端技術であるマグネットフォンテープに録音された。しかし、その録音テープは戦後、1945年ベルリンを占領したソ連軍が戦利品として押収したため、鉄のカーテンの向こう側へ消えた幻の記録となってしまった。
戦争が終結し20年ほどたったある日、ソ連を訪れたある旅行者によって数々の押収された録音がソ連国内で流通していることが発見された。そのニュースは西側諸国のフルトヴェングラー・ファンの関心を強くひき、一大センセーションを巻き起こした。しかし、これらのレコードはソ連国外への流通がされておらず、入手困難なレアアイテムとなって珍重されるようになった。
後に、熱烈なフルトヴェングラー・ファンの要望にこたえるため、1960年代の後半になってイギリスのハンター社(ユニコーン・レーベル)をはじめ数多くのレコード会社がそのソ連製レコードのコピーを西側で販売を始めた。このレコードはソ連の市販品コピーであり、音質にやや難があるにもかかわらずその演奏のすばらしさが知られるようになった。
そして、ソ連でペレストロイカが始まり、政治体制が民主的な方向へ変化し始めた1987年頃、ソ連から押収したテープのソ連国内放送用マスターからのコピーがドイツの放送局へ送られた。さらに体制崩壊の1991年になってようやく全押収テープがドイツへ返却された。これらのテープによって作成されたCDはこれまで西側流通していたコピーレコードよりも音質が格段に優れており、再びフルトヴェングラー・ファンの間でセンセーションを巻き起こした。
しかし、録音後半世紀も経過したテープは磁性の減衰やたわみなどの劣化がわずかながらに発生しており、コアなフルトヴェングラー・ファンはテープの状態が新鮮なときに音溝を刻み込まれた初期のソ連製レコードに着目し始めた。この初期盤レコードから復刻されたCDを聞くと、レコード特有のサーフェスノイズは若干あるものの、テープ特有の音のふらつきや音のこもりが無く、輝かしく重量感がある音がする。
この初期のソ連製レコードの探求にはさまざまな困難があったそうである。まず、旧ソ連国内でのレコード流通における情報が乏しく調査には困難を極めた。ようやく初期盤レコードが1950年代の後半に流通されたことがわかっても、状態の良い盤を見つけることはさぞかし大変なことだったであろう。また、1950年代の後半というとレコードの再生規格がまだ統一されておらず、状態が良いものが見つかったとしても正しい再生方法については手探りの状態であったそうである。
このCDは貴重な旧ソ連LP 、VSG盤(ガスト56相当、1956~60年製作)より復刻された。VSG盤とはソ連政府関係者向けに特別に製造されたものであり、当時一般向けに流通していた同レコードよりも希少であり、豪華なつくりになっているため音も良い。
このように奇跡的に発掘されたレコードから丁重に復刻された音に耳を傾けていると、長きに渡るフルトヴェングラー・ファンの情熱と探究心、そして戦後半世紀にわたるドイツやソ連の変遷、このすばらしい演奏を後世に残すべく努力したドイツの技術者やソ連のレコード会社、初期盤を発掘してすばらしい復刻をした日本の技術者の方々に敬意を表せずにはいられない。
2012年6月24日日曜日
2012年6月17日日曜日
スヴャトスラフ・リヒテルが1970-1973年に録音した
「バッハ・平均率クラヴィーア曲集」 (GD 60949 RCA VICTOR)
バッハの音楽は神聖でなんとなく近寄りがたい思いがする一方、遠い昔、子供の頃母親に抱かれている時のような安堵をもたらしてくれることがある。何か具体的なメッセージのようなものは何も感じないんだけど、幼子イエスを見つめる聖母マリアの優しいまなざしのような安らぎや安心。リヒテルの演奏から特にそういったものを感じる。
この録音はリヒテルの全盛期である1970年代前半にオーストリア、ザルツブルグのクレスハイム宮殿で録音された。残響がとても長くピッチが若干高め。特殊な残響のせいか、音色はやわらかく、純度が高い。
スヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter、1915-1997)ソビエト出身のピアニスト。1950年代は冷戦の影響で西側での演奏活動がずいぶん制限されたそうだが、1960年頃からソビエト国外での演奏活動や録音も活発になった。現在でも彼の膨大な数のCDが発売されているが、この「バッハ・平均率クラヴィーア曲集」は間違いなく彼の代表作であると思う。
先日98歳で亡くなった音楽評論家、吉田秀和さんの言葉を思い出す。「妻が亡くなった直後は何の音楽も聴く気になれなかった。感情に強く訴えかけてくる音楽から邪魔されずに自分の中に一人でいたいと思った。でもバッハは邪魔しなかったなぁ。」きっと、バッハの音楽には人類が絶えず求め続けている秩序や音楽といった存在を超越した理想郷、そして人間の心の奥深くにある核に直接通じる何かがあるんだと思う。
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